仏典の最高峰の法華経の肝心・寿量品の経文と現代語訳を並べてその内容を理解しやすくしてみました。
上段:鳩摩羅什による漢文法華経
中段:現代語訳
下段:法華経『如来寿量品第十六』の現代語訳と通釈 日達上人御述(通釈法華経220ページ)
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法華経 如来寿量品
爾時仏告諸菩薩。及一切大衆。諸善男子。汝等当信解。如来誠諦之語。復告大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。又復告諸大衆。汝等当信解。如来誠諦語。
その時、釈迦牟尼仏は、諸々の菩薩と、一切の大衆に告げた。「諸々の善い男子よ、あなた達は、まさに、仏の真実の話を信じて理解しなさい」また、釈迦牟尼仏は、大衆に告げた。「あなた達は、まさに、仏の真実の話を信じて理解しなさい」またまた、釈迦牟尼仏は、諸々の大衆に告げた。「あなた達は、まさに、仏の真実の話を信じて理解しなさい」
そこでお釈迦様は、沢山の菩薩方や、すべての人々に(迹門にして常に一切声聞と呼ばれたが、既に二乗は教化せられ今は但教化菩薩道であるから、乃声聞とは呼ばないのである)に向かって、『皆さん、あなた方は、仏様の真実(仏の心も実なり、仏の事業も実なること)の語を信じ解了しなさい』 この様に二度、三度と誡められました(三誡)
是時菩薩大衆。弥勒為首。合掌白仏言。世尊唯願説之。我等当信受仏語。
この時、菩薩の大衆は、弥勒菩薩を先頭にして、合掌して、釈迦牟尼仏に言った。「釈迦牟尼仏よ、ただ、願わくば、この事について、説いてください。私達は、まさに、仏の話を信じて受け入れます」
"このとき、菩薩方や一切の人々は、弥勒菩薩を初めとして、合掌して仏様に申し上げるには、『仏様よ、どうかこの事をお説き下さい。私共は、仏様のお言葉を必ず信受いたします』
如是三白已復言。唯願説之。我等当信受仏語。
菩薩達は、同様の言葉を三度、言い終わると、また、言った。「ただ、願わくば、この事について、説いてください。私達は、まさに、仏の話を信じて受け入れます」
と、この様に三度申し上げました(三請)。さらに重ねて、『どうかこの事をお説き下さい。私共は、仏様のお言葉を必ず信受いたします(前の三請に加えるが故に、これを本門の四請という、迹門の三請に対す)』
爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。而告之言。汝等諦聴。如来秘密。神通之力。
その時、釈迦牟尼仏は、諸々の菩薩が三度、要請して止めなかったのを知って、告げて言った。あなた達は、仏の秘密、仏の神通力について、明らかに、聴きなさい。
そこで、お釈迦様は、菩薩方が三度請いて、しかも猶止まないのを知られて、菩薩方に告げられて『あなた方は、諦かに、仏様の未だ嘗て説かなかった即身成仏の法を聞きなさい』。
一切世間。天人。及阿修羅。皆謂今釈迦牟尼仏。出釈氏宮。去伽耶城不遠。坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。
一切の世間の天人、人、阿修羅は皆、このように(誤って)思っている。「今、釈迦牟尼仏は、釈迦族の宮殿を出て、伽耶城ガヤーから遠くない場所へ去って、道場である菩提樹の下で、坐禅して、『阿耨多羅三藐三菩提』、『無上普遍正覚』を得(て仏に成っ)た」と。
『一切の、この世の菩薩を含めて天人及び阿修羅の人々は、皆、今日のお釈迦様は、迦毘羅衛城の釈迦の王宮を出て、伽耶城のほど誓い菩提樹下の金剛の仏の悟りの座に坐して無上の正覚を得たのであると謂っておりますが、
然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫。
しかし、善い男子よ、私、釈迦牟尼仏が、実は、仏に成って以来、幾百千万億那由他もの、無限なほど、量り知れないほど無数の劫がたっているのである。
そうではありません。皆さん、私(今の釈尊)は、実に成仏してから已来無量無辺百千万億那由他劫という非常に長い年代を経ておるのであります』
譬如五百千万億那由他。阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由他阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。意於云何。是諸世界。可得思惟校計。知其数不。
例えば、五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮に、ある人が、粉々にして、微細な塵ちりにして、東方の五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎたら、一つの塵を下に落とすような物なのである。このようにして、東方へ行って、この微細な塵ちりを下に落とし尽くす。諸々の善い男子よ、どう思うであろうか?これらの諸々の世界を、考えて、その数を知ることはでき得るであろうか? 否か?
『この長い年代を譬えいうならば、五百千万億那由他阿僧祇の実に計りきれない沢山の三千大世界を、ある人が、これを粉砕して微塵として、東方へ進んで、五百千万億那由他阿僧祇の沢山の国土を過ぎて、その一微塵を落し、その様に東に進み次ぎ次ぎに一微塵を落し、終にこの微塵を落し尽くしてしまって、その経過したこれらの世界の数を思惟し、計算してその数を、皆さんは、しることができますか。如何?』
弥勒菩薩等。倶白仏言。世尊。是諸世界。無量無辺。非算数所知。亦非心力所及。一切声聞。辟支仏。以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住阿惟越致地。於是事中。亦所不達。世尊。如是諸世界。無量無辺。
弥勒菩薩達は、共に、釈迦牟尼仏に言った。釈迦牟尼仏よ、これらの諸々の世界は、無限なほど、量り知れないほど無数で、数えて、知ることができないほどですし、心の力が及ばないほどです。一切の声聞と、「辟支仏」、「独覚」が、「無漏の」、「煩悩が無い」智慧によって、思考しても、その果ての数を知ることは不可能です。私達、菩薩達は、「阿惟越致」、「不退転」の境地にいますが、この事について、通達していません。釈迦牟尼仏よ、これらの諸々の世界は、無限なほど、量り知れないほど無数です。
弥勒菩薩初め多くの菩薩方はお釈迦様に答えて申すのに、『ある人が、その様にして経過した世界の数は無量無辺であります。算数や心力では及ぶ所ではありません。たとい、声聞や辟支仏が清浄の智恵を以て考えても、その実数は計算することは出来ません。私共の如く、成仏の道において不退転の地位にある者ですら、このことは計算して知ることはできません。仏様、これらの世界の数はただ無量無辺であると申すほかありません』
爾時仏告。大菩薩衆。諸善男子。今当分明。宣語汝等。是諸世界。若著微塵。及不著者。尽以為塵。一塵一劫。我成仏已来。復過於此。百千万億。那由他。阿僧祇劫。
その時、釈迦牟尼仏は、大いなる菩薩達に告げた。諸々の善い男子よ、今、まさに、明らかに、あなた達に話そう。例え話の、微細な塵ちりを着けたり、着けなかったりした、これらの諸々の世界を、ことごとく、塵ちりにして、一つの塵ちりを一劫とする。私、釈迦牟尼仏が仏に成って以来、これを超過して、百千万億那由他阿僧祇劫たっているのである。
その時、お釈迦様は、これらの大菩薩に申しますのに、
『皆さん、今まで秘して説きませんでしたが、今、明白にあなた方に説きます。ある人が東方に向かって経過した世界を、微塵が落ちた世界も、微塵が落ちなかった世界も悉く合して、それを微塵となし、その一塵を一劫として数えれば、その劫数は無量無辺であります。ところが私(釈迦仏)が成仏してから已来は、その劫数に過ぎることが百千万億那由他阿僧祇劫であります(即ち久遠を顕す)』
"(注意 三千塵点劫の三千とは三千大千世界、五百塵点劫と五百とは五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界) "
自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化。亦於余処。百千万億。那由他阿僧祇国。導利衆生。
私、釈迦牟尼仏が仏に成った、この時から、私、釈迦牟尼仏は、常に、「この娑婆世界」、「この世」にいて、説法して、教化している。また、この世以外の他の場所である百千万億那由他阿僧祇の仏国土で、「衆生」、「生者」を導いて、利益をもたらしている。
『久遠の昔に成道してから已来、私は常にこの娑婆世界に在って、人々に説法教化しております。また余処の百千万億那由他阿僧祇の国土において人々を引導利益しております。
諸善男子。於是中間。我説燃燈仏等。又復言其。入於涅槃。如是皆以。方便分別。
諸々の善い男子よ、この法華経の途中で、私、釈迦牟尼仏は、燃灯仏などについて説き、また、その燃灯仏が「涅槃に入ったこと」、「(肉体が)死んだこと」について言った。これらは皆、「方便」、「便宜的な方法」で、分別しているのである。
久遠より、今日の法華経の説法に至るまでの中間に、私(釈尊の因位の修行を示した)は然燈仏に遇い修行して仏になったと説き、あるいは成仏して涅槃に入った事等を説いたのは、皆、仮りの手段に説いたので真実の事ではありません。実に自分は久遠の昔に成仏しておるので、中間に因位の修行を説いたのは、成仏以後に示現した垂迹の化用にすぎないのであります』
諸善男子。若有衆生。来至我所。我以仏眼。観其信等。諸根利鈍。随所応度。処処自説。名字不同。年紀大小。
諸々の善い男子よ、もし、ある「衆生」、「生者」が、私、釈迦牟尼仏の所に来たら、私、釈迦牟尼仏は、「仏眼」で、その生者の信心などの諸々の「根」、「能力」の利発、愚鈍を観察して、仏土へ渡すべき者に応じて所々で自ら不同の名前、不同の年数を説く。
『皆さん、もし人々が、機根が熟して、私(釈尊)の所に来るならば、私は仏眼を用いて、その人々に信心や、その人々の理解力の如何を見て、済度すべき方法によって済度します。過去において所々に種々の名で出世し、十方の国土に分身として種々の名で出世し、そして世に住する寿命の長短を示しました』
亦復現言。当入涅槃。又以種種方便。説微妙法。能令衆生。発歓喜心。
また、私、釈迦牟尼仏は、この世に(肉体をまとって)出現して、「まさに、涅槃に入る」、「まさに、(肉体が)死ぬ」と言う。また、私、釈迦牟尼仏は、種々の「方便」、「便宜的な方法」で、微細で絶妙な仏法を説いて、「衆生」、「生者」に喜ぶ心を起こさせることが可能である。
『そして又、滅度を以て得度するを得べき者のためには滅度を現じました。又、小乗の釈尊として諸の小乗を説き、権大乗の釈尊として諸の権大乗教を説き、久遠の仏身を顕わして法華経寿量品を説き、能く人々をして歓喜の心(一分の無明を断ずる所に起こす歓び)を起こさしめました』(過去の益物終り)
諸善男子。如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。為是人説。我少出家。得阿耨多羅三藐三菩提。
諸々の善い男子よ、釈迦牟尼仏は、諸々の「衆生」、「生者」が「小法」、「中途半端の法」を願っているのを見て、この人々の為に、「私、釈迦牟尼仏は、若くして、出家して、『阿耨多羅三藐三菩提』、『無上普遍正覚』を得た」と説く。
『皆さん、仏様は、今世の人々が七方便の小法(人、天は二十五有を貪愛し、二乗は涅槃に貪著し、三教の菩薩は漸教を楽うて仏道を迂回する)を楽い、大乗の縁薄く、煩悩の迷いが深いのを見られて、この機根不劣の人々のために、私は若くして釈氏の宮を出て、出家して十二年修行して、始めて無上正覚を得て成仏しましたと説いたのであります』。
然我実成仏已来。久遠若斯。但以方便。教化衆生。令入仏道。作如是説。
しかし、私、釈迦牟尼仏は、実は、このように、仏に成って以来、久遠なのである。ただ、「方便」、「便宜的な方法」で「衆生」、「生者」を教化して仏道に入らせるために、このように説くのである。
『だがしかし、私は本来、実在せるので今始めて生ずるものでなく、実に成仏して已来、久遠の年代を経ていることは前述の譬の如くであります。それなのに何故に、現在、この世に始めて正覚を成じたことを示したのであるかというと、小法を楽う鈍根の人々を、種々の法によって教化して仏道に入らしめようとしたため、仮りの手段に、この様に示現したのであります』
諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。諸所言説。皆実不虚。
諸々の善い男子よ、仏が演説する経は皆、「衆生」、「生者」を仏土へ渡して解脱させる為の物なのである。仏は、自身について説いたり、他者について説いたりする。仏は、自身について示したり、他者について示したりする。仏は、自身の事について示したり、他者の事について示したりする。仏の諸々の所説は皆、実に、虚しい物ではないのである。
『皆さん、仏様が演説する経典は、皆、人々を済度し、解脱せしめるためであります。故にある時は法身を説き、ある時は応身を説き、(己身、他身は相対して不同、もし己身を仏界に説くときは他身は九界であるが如し)あるいは、自身を示現し、あるいは他身を示現し、あるいは仏身を示し、あるいは国土を示すのであります。その説く所は、皆真実であって虚妄はありません』
所以者何。如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実。非虚。非如。非異。不如三界。見於三界。如斯之事。如来明見。無有錯謬。
理由は何か? (と言うと、)仏は、ありのままに、三界の相を知見している。仏には、生死が無い。仏は、(あえて)退いたり、(あえて)出現したりする。仏には、存命も、「滅度」、死」も無い。仏は、(肉体が)真実でもないし、虚しいものでもない。仏は、似ている者がいないし、(生者と全く)異なる者ではない。(仏の知見は、)三界における凡人が三界を見るようではないのである。このような事を、仏は明らかに見て、誤りが無い。
『そのわけは、仏様は、欲、色、無色の三界の実相は本来、常住であると如実に知見せられるから、煩悩を起こしません(煩悩を起こすを退という)。煩悩を起こさないから生死(分段、変易の二生死)の果を受くることがありません(生死の果、現わるるを出という) 亦、生死の因におること(在世偏空)もなく、涅槃の果に帰すること(滅度但空)もありません。涅槃の実現でもなく、生死の虚事でもありません。二乗の境界である平等でもなく、凡夫の境界である差別でもありません。(以上は仏が中道の妙理に入っているから)』『仏様は如実に三界を知見せられる故に、凡夫が三界を見る如く有、空の二辺に著することはありません。前に述べた事は、仏様は実智を以て明らかに知見せられるのでありますから、少しも錯誤がありません。
以諸衆生。有種種性。種種欲。種種行。種種憶想。分別故。欲令生諸善根。以若干因縁。譬喩言辞。種種説法。所作仏事。未曾暫廃。
諸々の「衆生」、「生者」には種々の性質、種々の欲望、種々の行い、種々の推測の想像と分別が有るので、仏は、生者に、諸々の善の種となる善行を生じさせたいと欲して、幾つかの「因縁」、「譬喩」、言葉遣いで種々に説法して、「仏事」、「仏の働き」を行おこなって未だかつて一時も止めたことが無い。
仏様は、人々の性質が種々であるをわきまえ、又、その楽う所の欲望が種々であるのにしたがい、その過去世の宿業が種々であるのに応じ、その智恵の浅深を分別せられて、それ等の人々に、善根を生ぜしめようと考えられて、それ相当の因縁談や譬喩談を用いて、種々(八万四千)の説法をして、仏道に悟入せしめたるために、仏事をなされていて、久遠の昔より、今日の法華経の説法まで暫くも休みません。
如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。
このように、私、釈迦牟尼仏は、仏に成って以来、とても大いに久遠なのである。仏の寿命は、幾阿僧祇もの無量の劫なのである。仏は、常に存在していて、不滅なのである。
この様にして、私は成仏してから已来、甚大にして久遠であります。寿命は無量で阿僧祇劫の長時であって今に常住して滅しません』
諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。
諸々の善い男子よ、私、釈迦牟尼仏は、本もとより、菩薩の道を行って形成している(仏の)寿命は今なお未だ尽きないし、また、(仏の寿命は)先の数(、菩薩の道を行って形成している仏の寿命の量)の倍なのである。
『皆さん、私は久遠の昔に、まず菩薩道を行じて成ずる所の寿命は今猶尽きずして常住不滅であること前の五百塵点劫の数に倍しております(本因を説く)。
然今非実滅度。而便唱言。当取滅度。
そして、今、真実の「滅度」、「(仏の実体の)死」ではないが、しかし、「まさに、滅度する」、「まさに、(仏の肉体が)死ぬ」と言うのである。
況んや、成仏しての寿命は甚大なことを知ることができるでしょう。私(仏)は常住不変でありますが、然し人々を教化のために滅度すると称するのであります。
如来以是方便。教化衆生。所以者何。若仏久住於世。薄徳之人。不種善根。貧窮下賎。貧著五欲。入於憶想。妄見網中。若見如来。常在滅。便起恣。而懐厭怠。不能生於。難遭之想。恭敬之心。
仏は、このような「方便」、「便宜的な方法」で、「衆生」、「生者」を教化するのである。理由は何か? (と言うと、)もし仏が長い間、この世に存在したら、徳の少ない人は、善の種となる善行を植えず、貧困で困窮し、下賤で、「五欲」、「五感の欲望」に貪欲に執着して、推測の妄想の(誤った)見解の網あみの中に入ってしまう。もし仏が常に存在していて不滅であるのを見たら、徳の少ない人は、思い上がって他者を見下し、わがままに振る舞う心を起こして、善行を嫌がり怠ける心を懐いて、「仏には会い難い」という想いと、仏を恭しく敬う心を生じることができない。
かくの如く仏様は久遠劫已来、生滅を示し、久遠の本法の妙法蓮華経を以て人々を教化して来たのであります』『この如く仏様が、仮の滅度を現じて人々を教化せられる所以は、もし仏様が久しく世に住せられるならば、本未有善の人々は妙法蓮華経を唱えようとはしません。妙法蓮華経を唱えないから、貧窮下賤の身となり、凡夫の欲望にのみ耽り正法を邪法と想い、妄語の教や、邪見の教に捕えられ、謗法不信の網の中に入ってしまいます。もし又仏様が、常住して不滅であると見ると、本未有善の凡夫は、自らを驕り、怠惰の心を起こして、仏様には仲々遭い難いということも考えず、又敬い奉る心も起こしません』
是故如来。以方便説。比丘当知。諸仏出世。難可値遇。
このため、仏は、「方便」、「便宜的な方法」で説くのである。「『比丘』、『出家者』よ、まさに、知るべきである。諸仏の、この世への出現には出会い難いのである」
『この故に仏様は仮の手段を用いて、仏身に生滅あるを説きました。僧達よ、仏様方の出世に値遇し奉ることは甚だ難いということを、わきまえなければなりません。
所以者何。諸薄徳人。過無量。百千万億劫。或有見仏。或有見者。以此事故。我作是言。諸比丘。如来難可得見。斯衆生等。聞如是語。必当生於。難遭之想。心懐恋慕。渇仰於仏。便種善根。是故如来。雖不実滅。而言滅度。
理由は何か? (と言うと、)諸々の徳が少ない人には、幾百千万億もの量り知れないほど無数の劫を過ぎても、仏にまみえることができる人もいれば、仏にまみえることができない人もいる。このため、私、釈迦牟尼仏は、このように言うのである。「諸々の『比丘』、『出家者』よ、仏には、出会い難いのである」これらの「衆生」、「生者」達は、このような言葉を聞くと、必ず、まさに、「仏には会い難い」という想いを生じて、渇いた人が水を恋い慕うように、心に仏を恋い慕う気持ちを懐いて、善の種となる善行を植える。このため、仏は、実は(実体は)滅びないが、「滅度する」、「(肉体が)死ぬ」と言うのである。
そのわけは、多くの本未有善の人々は無量百千万億劫の年代を過ぎて、ようやく仏様にまみえる人もありますが、そんなに永い年代を過ぎても、仏様にまみえることが出来ない人もあります。この様に、仏様には値遇し難いのでありますから、私(釈尊)は多くの僧達に向って、仏様を見ることが仲々できないのでありますと申しました。本未有善の薄徳の人々は、この私の言葉を聞いて、きっと仏様に遭い難いという想いを起こし、仏様を慕い、あこがれる心を懐いて、妙法蓮華経を唱える様になります。かくの如く仏様が滅度することによって大なる利益がありますから、実は常住で不滅ではありますが、滅度の相を現ずるのであります』
又善男子。諸仏如来。法皆如是。
また、善い男子よ、諸仏の仏法も皆、同様なのである。
『皆さん、今まで明かした久遠の仏の三世益物の有様は、我・釈迦仏のみのことではありません。一切の仏様方の説法もこの様であります。
為度衆生。皆実不虚。
「衆生」、「生者」を仏土へ渡す為に、仏法は皆、実に、虚しい物ではないのである。
ただ人々を済度するためでありますから、その利益は実であって虚言ではありません。』(已上で法説終り。已下譬説)
譬如良医。智慧聡達。明練方薬。善治衆病。其人多諸子息。若十二十。乃至百数。以有事縁。遠至余国。
例えば、ある名医は、智慧が聡明で通達していて、薬の処方に明るくて、善く多数の病を治していた。その名医である人には、十人、二十人から百人の数の諸々の息子がいた。ある事情、ある関係で、名医である父は、遠い他の国へ行った。
(これより譬説 良医病子の譬え)
『譬えば良医があって、その良医は智慧が聡明で種々の薬に明るく、種々の病気を癒やします(良医は仏に譬える、仏は究竟して衆生の病を治す。仏は権実の二智を以て、八万、十二の経々を用い、苦の衆生を済度する故なり) その良医は沢山の子供があります。十(声聞)、二十(縁覚)、百数(菩薩)に及びます。この良医は所用があって遠い他国に行きました(仏の不滅の滅を示す、過去の益物)』
諸子於後。飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地。
名医の息子は、後に、他のものによる毒薬を飲んでしまった。毒薬は、名医の息子を悶えさせて乱れさせて、地に転がさせた。
『この子供達は後になって、異の毒薬を飲んで、その薬の毒が発して苦しんで大地に転々と這い回っておりました(謗法の僧に導かれ権教方便を信じ久遠の寿命を断ち、かえって阿鼻地獄に堕つるをあらわしている)。
是時其父。還来帰家。諸子飲毒。或失本心。或不失者。遥見其父。皆大歓喜。拝跪問訊。善安穏帰。我等愚痴。誤服毒薬。願見救療。更賜寿命。
この時、その息子の、名医である父が帰国して、家に帰った。諸々の名医の子達は、毒薬を飲んで、本心を失っている者もいれば、本心を失っていない者もいた。名医の息子は、その名医である父を遠くから見つけると、皆、大いに喜んで、礼拝して、ひざまずいて、合掌し低頭し安否を尋ねた。「善く、安穏として、帰ってこられました。私達は、愚かで、誤って、毒薬を服用してしまいました。願わくば、救って、治療して、寿命を全うさせてください」
この時丁度、その父が他国から家に還って来ました。子供達の毒を飲んで既に本心を失った者、あるいはまだ本心を失わない者(本心を失うことは、久遠に妙法蓮華経を下種されておるのを失うこと)等は皆自分の父が還って来たのを遙かに見て非常に歓喜して跪(ひざまづ)き、拝して申すには、よくすこやかにお帰りになられました。私共は愚のため間違って毒薬を飲んでしまいました。どうか早く治療して治して、もう一度生きかえらせて下さい、と申しました』
父見子等。苦悩如是。依諸経方。求好薬草。色香美味。皆悉具足。擣篩和合。与子令服。而作是言。此大良薬。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩。無復衆患。
"この時、その息子の、名医である父が帰国して、家に帰った。諸々の名医の子達は、毒薬を飲んで、本心を失っている者もいれば、本心を失っていない者もいた。名医の息子は、その名医である父を遠くから見つけると、皆、大いに喜んで、礼拝して、ひざまずいて、合掌し低頭し安否を尋ねた。「善く、安穏として、帰ってこられました。私達は、愚かで、誤って、毒薬を服用してしまいました。願わくば、救って、治療して、寿命を全うさせてください」 "
『父はこの様な子供達の苦悩を見て、医書の方法に従って、色も香も味も皆よき大良薬(万行万善諸波羅蜜を具足せる大良薬たる妙法蓮華経なり、題目の五字に一法として具足せざるはなし)を取り出して、しかも擣き砕き篩って和合して(空諦、仮諦、中道の三観具足する妙法蓮華経)、子供達に服せしめました(妙法蓮華経を末法の人に授与すること)』『而して父の申しますには、この大良薬は、色、香、味皆悉く具足しております。お前達はこれを飲みなさい。そうするとすぐに早くその苦しみが去って、又、別の苦しみも無くなります(一刻も早く妙法連経を受持して生死の苦を出離せよとの勧誡である)』
其諸子中。不失心者。見此良薬。色香具好。即便服之。病尽除愈。
その名医の諸々の子達の中で、本心を失っていない者は、色も香りも共に好い、この良薬を見て、この良薬を服用し、病が、ことごとく除去されて、癒えた。
『子供達の中の未だ本心を失わなかった者達は、この色、香、味の具足した大良薬を見て、これを即座に服した所、苦悩は忽ちに平癒しました。
余心失者。見其父来。雖亦歓喜問訊。求索治病。然与其薬。而不肯服。所以者何。毒気深入。失本心故。於此好色香薬。而謂不美。父作是念。此子可愍。為毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。求索救療。如是好薬。而不肯服。
その他の、本心を失ってしまっている者は、その父である名医が来るのを見て喜んで、合掌し低頭し安否を尋ねて、病の治療を求めた。しかし、名医である父が、その良薬を与えると、本心を失ってしまっている者は、服用を拒否してしまった。理由は何か? (と言うと、)毒気が、深く入ってしまっていて、本心を失わせてしまっているので、この好い色と香りの良薬を、不快に思ってしまったのである。名医である父は、このように思った。この子は、あわれむべきである。毒に中あてられて、心が皆、転倒してしまっていて、名医である父である私を見て喜んで、救済と治療を求めても、この好い良薬の服用を拒否してしまう。
残余の本心を失った者達は、父の還って来たのを見て喜んで治療をお願いはしましたが、父から大良薬をもらっても飲もうとはいたしません。そのわけは、この子供達は既に毒薬の毒が身心に深くしみこんで本心を失ってしまっているから、この良い色、香、味の具足した大良薬すら美味しくないと思っているのであります(謗法深重の者は妙法蓮華経の大良薬を信受しません)』『そこで父は、この子供等こそ哀れむべきであります。毒のために深くあてられて、心が狂っているのであろうと思いました。だから私を見て、喜んで治療して呉れと申しながら、与えた所のこの大良薬を飲もうとしないのでしょうと思いました。
我今当設方便。令服此薬。即作是言。汝等当知。我今衰老。死時已至。是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。作是教已。復至他国。遣使還告。汝父已死。
私、名医である父は、今、まさに、『方便』、『便宜的な方法』を設けて、この良薬を服用させよう」そして、名医である父は、このように言った。「あなた達は、まさに、知るべきである。私は、今、老衰していて、死ぬ時が既に来てしまっている。この好い良薬は、今、ここに置いておく。あなた達は、服用するべきである。『癒えないのではないか?』と心配するなかれ」名医である父は、このように教え終わると、他国に行って、使者を派遣して、告げさせた。「あなたの父は、既に、死んでしまいました」
そこで私は、今、仮の手段を設けてこの良薬を飲まそうと考え、こう申しました。あなた方はよく覚えて置きなさい。私はもう老年になって衰え、死す時が来ました。このよい大良薬を、今此処に置きます(南無妙法蓮華経を末法の今、この日本国に留める)。あなた方は、これを取って飲みなさい。病気が治らないと悲観してはいけません。必ず平癒します(末法の一切衆生は、この妙法蓮華経を受持し唱え奉れば、始成正覚の迷いが覚め久遠本有無作三身の覚体となる)。この教えを説き終って父は又、遠い他国へ行きました。そして使いを子供達に遣わして、あなたの父は既に死にましたと、告げさせました(仏の滅後、菩薩が出現して仏の教法を示して滅後の衆生を引導するなり)』
是時諸子。聞父背喪。心大憂悩。而作是念。若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪他国。自惟孤露。無復恃怙。
この時、諸々の子達は、名医である父が「死んだ」と聞いて、心が大いに憂い悩んで、このように思った。「もし父がいれば、私達を、能よく、思いやってくれて、救ってくれて、護ってくれただろう。今は、私達を捨てて、遠くの他の国で死んでしまわれた。自ら考えると、孤児になってしまったし、父といった頼ることができる者がいない」
『これによって子供達は、父が子供達を捨てて他国に行き死せると聞き、心に大いに悩みを持ち、もし父が在世ならば私共を哀れみ、よく救って下さいますが、今やその父は、私共を捨てて遠く他国へ行って、しかも死んでしまいました。私共は孤独で庇護してもらえず、又たよる所がありませんと思いました。
常懐悲感。心遂醒悟。乃知此薬。色香美味。即取服之。毒病皆愈。
常に悲しみの感情を懐いて、遂ついに心の目が覚めて「その良薬は色も良くて香りも良くて美味である」と知って、その良薬を服用して、毒による病が皆、癒えた。
そして常に悲しみに満ち、遂に菩提心を起こし、この良薬の色、香、味のすぐれているのに気付き、これを自ら取って飲み、病は悉く平癒しました(遣使還告の薩?によって南無妙法蓮華経を服して即身成仏するのである)(現在の益物)。』
其父聞子。悉已得差。尋便来帰。咸使見之。
その子の父である名医は、「子が、ことごとく既に癒えた」と聞いて、すぐに、帰って来て、子の、ことごとくに、この帰って来た姿を見せた。
『其の父は子供達が皆平癒したことを聞いて、再び還って来て悉く見るが如きであります(仏がこの土に出現して衆生を悉く済度するを説く)(未来の益物)』
諸善男子。於意云何。頗有人能。説此良医。虚妄罪不。不也世尊。
諸々の善い男子よ、どう思うであろうか?人が「この名医には虚しい妄りな嘘をついた罪が、とても重く有る」と説くことは可能であるか? 否か?(菩薩達は、釈迦牟尼仏に答えた。)「否です。釈迦牟尼仏よ」
『皆さん、あなた方はどう考えられますか、もし誰か、この良医のことを虚妄罪と(仏様の滅せあるを滅すといい、生ぜざるに、恋慕の心あれば生を示すの如き仮の手段を仏の虚妄罪)いう者がないでしょうか』『いや、虚妄罪などとはいえません』(善男子の答)
仏言。我亦如是。成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他阿僧祇劫。為衆生故。亦無有能。如法説我。虚妄過者。
釈迦牟尼仏は言った。私、釈迦牟尼仏も、また、同様なのである。私、釈迦牟尼仏は、仏に成って以来、無限なほど、幾百千万億那由他阿僧祇もの量り知れないほど無数の劫がたっているのである。 仏は、「衆生」、「生者」のために、「方便」、「便宜的な方法」の力で、「まさに、滅度する」、「まさに、(肉体が)死ぬ」と言うのである。また、「私、釈迦牟尼仏は、虚しい妄りな嘘をついた過ちがある者である」と仏法に従って説くことが可能な人はいないのである。
仏様(釈迦仏)が申しますのに、『私も亦、この良薬の如く実に成仏してから無量無辺、百千万億那由他阿僧祇劫であります。人々を済度するために仮の手段を用いて、実は滅しないが滅度するというのであります。今私が滅度するといっても、前に述べた説法の如くであって、誰でも私のことを、虚妄を説く者だと咎める者はないでしょう』
爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言
その時、釈迦牟尼仏は、くり返し、この意義を話したいと欲して、詩で説いて言った。
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
私、釈迦牟尼仏が仏に成ってから、経過した諸々の劫の数は、幾百千万億年も量り知れないほど無数なのである。
『私(釈尊)は本有無作の三身相即した古仏で、既に無量百千万億阿僧祇という無始の昔に自得した仏であります。既に無始無終の古仏を自得して以来、
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
私、釈迦牟尼仏は、常に説法して、幾億もの無数の「衆生」、「生者」を教化して仏道に入らせて以来、量り知れないほど無数の劫がたっているのである。
無数億という数えきれない人々を教化して、仏道に引入してから、又無量の年数であります。』
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
私、釈迦牟尼仏は、「衆生」、「生者」を仏土へ渡すために、「方便」、「便宜的な方法」で、「涅槃」、「(肉体の)死」を現すが、実は「滅度せず」、「(実体が)死なず」、常に、この世に留まっていて、説法するのである。
『私(久遠の釈尊)は一切の人々を済度せんがために、仮の手段を用いて滅度を示したのであります。(故に当説の涅槃経も亦法華経より出たのである) しかしそれは非滅の滅を示しただけであって、実際は滅度したのではなく、常に山谷であれ、曠野であれ、この娑婆世界に住して、南無妙法蓮華経を説いております』
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
私、釈迦牟尼仏は、常に、この世に留まっていて、諸々の神通力によって、(心や智慧などが)転倒している「衆生」、「生者」に、近くにいるといえども、見えないようにしているのである。
『私は常にこの国土に住して妙法蓮華経の説法をしておりますが、多くの邪見、謗法の人々には、神通力を用いて常に此処に住しながら滅度を現わして、
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
「衆生」、「生者」は、私、釈迦牟尼仏の「滅度」、「(肉体の)死」を見て、「舎利」、「仏の遺骨」に広く捧げものを捧げて、ことごとく皆、渇いた人が水を恋い慕うように、仏を恋い慕う心を生じて懐く。
私を見せしめません。人々は私の滅度を見て、広大に仏舎利を供養し、皆、仏を恋慕する思いを懐いて、尚仏を渇仰する心を起こしました』
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
「衆生」、「生者」は、既に仏を信頼して従うと、正直になって、心が柔軟になって、一心に仏を見ることを欲して、自らの身の命を惜しまないようになる。
『人々は既に仏の教に信伏して質実に、正直に意志が柔軟になりて、一心に仏を見奉らんと思って、自ら身命を惜しまないようになれば、
時我及衆僧 倶出霊鷲山
その時、私、釈迦牟尼仏と、僧達は、共に、霊鷲山に出現する。
その時、即ち末法の時、私(久遠の釈尊)は菩薩方、二乗、六道の衆生と、霊山寂光浄土に列出します。
我時語衆生 常在此不滅
その時、私、釈迦牟尼仏は、「衆生」、「生者」に語りかける。「仏は、常に、この世に存在していて、(実体は)不滅である。
私は寂光浄土に出でた時、人々に申します。常にこの霊山に在って滅度しません。
以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者
『方便』、『便宜的な方法』の力によって、『(肉体の)滅び』と『(実体の)不滅』を現すのである」と。他国で、ある「衆生」、「生者」が、仏を恭しく敬って、仏を信じて、仏を見ることを願えば、
但だ人々を済度するために神通力を以って、滅不滅の相、即ち生滅あるが如く現じたのであります』『もし余の国において人々が私を恭敬し信敬するならば、
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
私、釈迦牟尼仏は、その他国の中でも、ある生者の為に、無上の仏法を説く。あなた達は、この事について聞く耳が無かったので、ただ、「私、釈迦牟尼仏も滅度してしまう」、「釈迦牟尼仏も死んでしまう」と(誤って)思っていたのである。
私は復た、その国に身を出現して、妙法蓮華経を説きます。あなた方は私の説法の妙法蓮華経を聞かないから、但だ私が滅度してしまったものと謂っております』
我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰
私、釈迦牟尼仏は、諸々の「衆生」、「生者」が苦しみという海に沈没しているのを見て、生者の為に、(肉体という仮の)身を出現させて、それらの生者に、渇いた人が水を恋い慕うように、仏を恋い慕う心を生じさせる。
『私は多くの人々を見ますのに、謗法深重によって生死の苦海に沈倫しております。それ故に滅度を現じて、彼等をして渇仰の念を生ぜしめ、
因其心恋慕 乃出為説法
その心が仏を恋い慕うと、仏は出現して、その人の為に、説法する。
心に恋慕の思いを起こさしめることによって、世に出現して妙法蓮華経を説くのであります』
神通力如是 於阿僧祇劫
仏の神通力とは、このような物なのである。「阿僧祇の」、「無数の」劫、
『仏様の神通力を以て滅不滅の相を示すこと、この様でありますけれども、
常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
私、釈迦牟尼仏は、常に、霊鷲山と他の諸々の場所に存在している。「衆生」、「生者」が劫が尽きるときの劫火という大いなる火で焼かれるのを見る時でも、
実は常に霊鷲山(常寂光土)及び余の諸の住処(実報無障礙土、方便有余土、凡聖同居土)に住しておりますて、謗法の人々が世界の劫数が尽き、壊劫の時、来たって大火に焼き尽くさるるを見る時、即ち謗法の人々が煩悩の大火に焼き尽くさるるを見る時、
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
私、釈迦牟尼仏の、(この世という、)この仏国土は、安穏としていて、天人、人が常に充満している。釈迦牟尼仏の、(この世という、)この仏国土は、園林、諸々の高い立派な建物、種々の宝で荘厳に飾られている。
仏様の常寂光の国土は安穏であって、天と人と常に充満して、法界、悉く一道場となり、園林も諸の堂閣も、種々の宝珠を以て荘厳され、
宝樹多華果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
"釈迦牟尼仏の、(この世という、)この仏国土では、宝の樹に、華や果実が多くなっていて、「衆生」、「生者」が遊んで楽しんでいる。釈迦牟尼仏の、(この世という、)この仏国土では、宝の樹に、華や果実が多くなっていて、「衆生」、「生者」が遊んで楽しんでいる。 "
宝樹には立派な花咲き、木の実がなります。一切の人々が遊行歓楽する処であります。諸天は天の鼓を撃ち、、常に種々の舞伎、音楽を作し、
雨曼陀羅華 散仏及大衆
曼陀羅華を雨のように降らして、釈迦牟尼仏と大衆に、まき散らす。
天から曼陀羅華を雨らして、寂光浄土の仏様や所化の人々の上に散華いたします』
我浄土不毀 而衆見焼尽
私、釈迦牟尼仏の「浄土」、「仏国土」は、不壊なのである。しかし、(罪のある)「衆生」、「生者」は、「(この世には、)焼き尽くされる憂いや恐れと、
『この様に久遠本仏の常寂光土は金剛不壊でありますのに、謗法の人々は過去世の福徳も尽き、劫末の劫火によって焼尽し
憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁
諸々の苦悩が、このように、ことごとく充満している」と見てしまう。これらの諸々の罪のある「衆生」、「生者」は、悪業を犯した因縁によって、
修羅、餓鬼の苦悩に充満し、阿鼻叫喚の内に堕ちておるのであります。これらの罰せられたる人々は謗法、不信の故に、
過阿僧祇劫 不聞三宝名
「阿僧祇の」、「無数の」劫が過ぎても、「仏と仏法と僧」という「三宝」という名前を聞くことすらできない。
無数劫の永い間を過ぎても仏法僧の三宝の御名すら聞かないであります。況や久遠の仏様に遇い奉ることなどは出来ません』
諸有修功徳 柔和質直者
諸々の「功徳」、「善行」を修行していて、柔和で、正直な者は
『諸の総ての善根を(初住已上の功徳)を修し、心の柔和忍辱、質実正直なる人々は、
則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
皆、私、釈迦牟尼仏の身が、この世に存在していて説法しているのを見ることができる。あるいは、その時、この仏を見ることができた「衆生」、「生者」の為に、私、釈迦牟尼仏は、「仏の寿命は無量なのである」と説く。
皆、久遠の仏様が常に霊鷲山に在して妙法蓮華経の寿量品の説法をせられているのを見奉ることが出来ます。ある時は、正しく信ずる人々のために仏寿は常住不変であると説きます。
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量
長い時間がたってから仏を見ることができる者の為に、私、釈迦牟尼仏は、「仏に会うのは難しい」と説く。私、釈迦牟尼仏の知力とは、このような物なのである。仏の智慧の光は、無量のものを照らすのである。
又、五濁悪世の謗法不信の人々で、久しき間の修行によって功徳を積んで仏様に遇い奉る人には、仏様は常には在さず、億劫にも値い難いと説きます』『私の久遠の覚りはこの様に、常住不変で、その智用は十方世界を照らし、
寿命無数劫 久修業所得
仏の寿命は、無数の劫なのである。長い間、善業を修行して、仏の寿命を得ることができるのである。
寿命は無量無終であります。この久遠の覚りも無終の寿命も、久遠に一心三観の妙行を修して証得したのであります。
汝等有智者 勿於此生疑
あなた達、智慧が有る者よ、この事について、疑いを生じるなかれ。
あなた方、智恵ある人々は、久遠実成の私の仏身に対して疑いを生じてはいけません。
当断令永尽 仏語実不虚
まさに、疑いを断じて、疑いを永遠になくし尽くしなさい。仏の話は、実に、虚しい物ではないのである。
当に疑網を永久に断じ尽しなさい。仏様のみ言は悉く真実で利益に虚妄はありません(偈文の説法終る 次は偈文の譬喩)』
如医善方便
例え話の父である名医が、善く、「方便」、「便宜的な方法」で、
『譬えば良医があって
為治狂子故 実在而言死
狂っている子を治すために、実は、生きて存在しているのに、「死んだ」と言うような物なのである。
善巧方便を用いて狂子の病を平癒するため、実には滅せざるに今、
無能説虚妄
「父である名医は、虚しい妄りな嘘をついた」と説くことは不可能なのである。
まさに死せりといいて、良薬を服せしめたのを、誰もこの良医を指して虚妄の者であるという者がない様なものであります。
我亦為世父 救諸苦患者
私、釈迦牟尼仏も、また、世の父と成って、諸々の苦しんでいる患者(である生者)を救っているのである。
私(仏)も亦、彼の良医の如く、一切の人々の父として、一切の人々の無間地獄の苦を救う者であります。
為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生憍恣心
凡人が(心や智慧などが)転倒しているため、私、釈迦牟尼仏は、実は存在しているのに、「滅度する」、「(肉体が)死ぬ」と言うのである。私、釈迦牟尼仏を常に見ることができたら、生者は、思い上がって他者を見下し、わがままに振る舞う心を生じてしまって、
故にこれらの人々を救う仮の手段として、真理を顚倒せる邪見の人々の対しては、我が仏身は此処に在れども滅度せりというのであります。』『そのわけは、彼等邪見の人々が常に我が仏身を見るを得ると憍慢、自恣の思いを生じて、
放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
正道から逸脱してしまって、「五欲」、「五感の欲望」に執着してしまって、地獄などの「悪道」の中に堕ちてしまう。私、釈迦牟尼仏は、「衆生」、「生者」の行っている道と、行っていない道を常に知っている。
凡身五欲の煩悩に貪欲になり、謗法をなして阿鼻地獄に堕ちることは疑いありません凡身五欲の煩悩に貪欲になり、謗法をなして阿鼻地獄に堕ちることは疑いありません。
随応所可度 為説種種法
私、釈迦牟尼仏は、仏土へ渡すべき者に応じて、仏土へ渡すべき者の為に、種々の仏法を説いて、
信ずる人々のために開近顕遠して遠本寿長を説き、謗法の人々のために開三顕一して近迹寿短を説きます』
毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身
常に、自ら、このように思っているのである。「どうしたら、『衆生』、『生者』を無上の仏道へ入らせて、速やかに、仏の身を成就させることができ得るであろうか?」と。
『この様に、久遠の本仏は、三世に渡って自ら本有無作の南無妙法蓮華経を以て、一切の人々を寿量品の無作三身の仏にならしめようとしているのであります』