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道徳教育問題が興味深い

道徳教育とわたし


わたしは、小学校に勤務していたとき
道徳教育を主たる研究領域としていました。

教育系の大学で学んだのではなく、
通信で教員免許を取った関係もあり、
特に得意としている教科というものは
持たなかったということもありますが、

教職を志し、教育の理想にも
ある程度燃えていましたので、
教育の中心は道徳教育という考えから
研究教科を道徳と決めたのでした。

なので、長い間道徳教育の研究と実践
にはそれなりに関わってきたつもりです。

道徳の授業に限らないのですが、
道徳の授業では特に
教材としての資料(教科書)、
資料から自分を見つめること、
そして自分の考えを友だちと比較する
ことが重要です。

この基本は時代が変わっても変わらないと思います。

ところが、
多くの先生方は、
道徳の授業はあまりやらない方が
多かったように記憶しています。

他教科の指導で手一杯という理由か、
「道徳教育は他教科の中でもできるし、
学校教育全体の中でやるものだ。」という理由です。

これには一理ありますし、
間違いではありません。
しかし、そういう理由を挙げて、
やりたくない(やっていられない)
というのも本音だったのではないでしょうか。

事実、私が退職するころには、
いじめ問題等で道徳教育の重要性を自覚する先生も増えてきて
道徳の授業をきちんとやる方も多くは
なりましたが、実施状況のアンケートでは、
特に中学校で実施率が低かったのを覚えています。

最近の文科省の調査では、
授業の実施率などというものは調べてはいません。
(調べたとしても、無記名でなければ正確な回答にはなりませんから)

その代わり、
指導計画や研修実施状況、授業参観実施状況を見れば、
実態は私が現職だった頃とさして変わらないことを
垣間見ることができます。

 


道徳の教科化について


平成27年に文科省は学習指導要領
の一部改定を実施しました。
道徳を「特別の教科」
と位置づけたのです。

私からすれば、
「やっとか」という思いです。
なぜなら、先程も書きましたように
このようにしないと、
現場の多くの先生方は道徳の授業をやらないからです。

教科にすれば、評価が伴います。
評価となれば(ここでの評価とは、
先生方にとって通知表や内申書
のことです。)
仕事ですから、やらざるを得ません。

評価のためには、授業や日常生活の中で
意識して子どもを観察する必要が出てきます。

文科省としての、真の狙いは、
このように、ひとつには
先生方の目をこれまで以上に
子どもたちに向けさせること
と捉えるべきでしょう。

もちろん、
子ども自身の目を子ども自身に
向けさせることもねらいであります。

少々残念なのは、
評価についての文科省の考えが
余り教科的ではなく、
記述式中心ということで、
反対派や慎重派に配慮していると思われるところがあります。

ところで、
現状をよく知らないマスメディア
を中心にこの道徳の教科化問題を
薄っぺらなものにしたがる傾向があります。

「ゆとり問題」のときも同様でした。
問題を掘り下げることをしない
マスメディアにはいつもがっかりさせられます。

道徳の教科化に反対や疑問を唱える
人たちは、教科にすることによって、
子供の心を戦前のように
ひとつの型に嵌め、
危険な方向に持っていくのではないかと
考えているようです。

これは、
道徳の授業を余りやったことがない人
や、授業を見たことがない人の言い分です。
あるいは、
単なる事なかれ主義でしょう。

社会科の授業で、
政治教育をすることに腰が引ける
先生の考え方と同様です。

道徳の授業でも、社会科の授業でも、
そしてすべての授業、教育の場では、
子どもたちに多様な考えを提示することが肝要と思います。

そのために、
教師は子どもから
多様な考えを引き出し、
あるいは資料や友達から多様な考えを
提示する責任があるのです。

 


道徳授業の例 家族愛


テレビのニュースで、
道徳教育の研修の様子が報じられていました。

私も昔研修会でTVのインタビュー
を受けたことがありました。
他の先生は逃げるので、調子に乗って
仕方なくなにかしゃべった
ことがありました。
しかし、それは報じられませんでした。

という経験から、
ニュースで報じられるインタビューは、
放送局の編集方針にあったものだけが
オンエアされるということが良くわかります。

それが公平なものならばいいのですが、
大抵は(中立という名で)偏りが見られます。

先日のインタビューには、
2種類ありました。

ひとつは、
評価をに疑問を投げかけるもの、
もうひとつは、
「学級の実態はそれぞれ違うので
教科書で一律に教えるわけにいかない」というものでした。

これは、どの教科にも言えることです。
教科書はそれを前提に作成されています。
理想的には、
各学校であるいは子ども一人ひとりに
合った教科書を作るべきなのです。

そんな、無茶な話題なのです。
そう取られかねないインタビューに
出演してしまった先生方が
かわいそうに思いました。

そんな中で、
具体的に家族愛の問題が
取り上げられていました。

「学級の中には、
親のいない子もいます。そういう学級で
両親揃った家族団らんの資料の載った
教科書など使えない。」という話です。

はい、
また事なかれ主義が出てきました。
では、
その先生は家族愛の授業をこれまで
やったことがないのでしょうか。

今時、
クラス全員が両親揃っているなどという
ことはありえません。
家族愛に限らず、やりたくないと思えば
いくらでも理由は見つかるものです。

逆に、やろうと思えば、
いくらでも工夫はできるものです。

私の経験から言いますと、
私は、
学級に母子家庭の子が一人しかいない
田舎の教師だった時、
その子が風邪で休んだ時に
実施したことがありました。

このように配慮すれば
いいわけでしょう。

しかし
今ではその方法はいいと思っていません。
理由は、
今や10%や20%は片親の学級でしょう。
私は30%がそうであった都市部の
学級を持ったこともあります。

そういうところでは、
普通に授業をすればいいと思います。
この世に親のない子などいないのですから。

あの世にいたり、遠くにいたり、
わからなかったりとさまざまですが、
だからこそ、そうした多様性に気づく良い機会となるのです。

または、
事前に子ども本人や保護者と打合せをしてから
授業を組み立てることもできるでしょう。
「子どもが傷つくから。」という理由で
その子にとって重要なことを誤魔化すようではいけません。

何だか今日は長くなってしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

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