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親の介護 互いに最も幸せな道をさぐる

親の介護 互いに最も幸せな道をさぐる

介護制度を活用して
ストレスフリーの親の介護を

親の介護を考えるにあたって,
大切にすべきことは,関わる者
のすべてが納得のいくあり方

目指すということと思います。

一部の者の人生が介護で長期間
潰れるようなことがあってはな
らないと思います。

最近はあまり聞かれなくなりま
したが,ついこの間まで,
「親の面倒は子どもが見るも
の。」「嫁が見るもの」
という考えが一般的でした。

私もかつては,介護で苦労をし
た愚痴話をよく聞かされたもの
です。

しかし,介護制度が整備された
今はほとんどそうした話は聞か
なくなりました。

それは,また親子ともに整備さ
れてきた介護制度を活用して
「互いに迷惑をかけない」「ス
トレスのない生活をしたい」と
いう考えが広がっているからで
はないでしょうか。

ここでは,
わたしの介護体験を通して,
これから介護機関に入っていく
であろうあなたのお役に立つ情
報を提供できればと思います。

 


親の介護を見通す


介護に至る2つの老化

10年以上前の頃、
わたしが親について考えていたことは
「介護」という概念ではなかったように思います。

その頃、
両親とも80代に入っていましたから、
「そろそろ面倒見ないと・・。」と
感じていた程度でした。

それは、ときどきの訪問で
感じていたことです。

行く度に感じたことは、
「家の中が汚くなってきた」
ということや、父が少し疑い深く
なってきたなということでした。

その頃から、介護という視点で
将来を見通せていたならば
少しは今と違った結果になっていたかと思います。

振り返れば、
介護に至るには、大きく分けて
2つの「老化」が始まるのだと思います。

1つには、認知症の始まり。
もう1つは、筋力の衰えです。

わたしのいとこが、経験から、
「大体年寄りは、ボケるか寝たきりになるか
どちらかだ。」と言ってましたが、
なるほどと思います。

認知症の始まり

認知症の兆候として、次のようなことが
よく挙げられます。

① 同じことを何度も言う。
② 忘れ物や探し物が多くなる。
③ 落ち着きがなくなり、怒りっぽく、頑固になる。
④ 料理を焦がすなど失敗することが増える。
⑤ 同じ服ばかり着たり、だらしない恰好や季節外れの格好が増える。
⑥ 何度も行った場所なのに、自分のいる位置がわからなくなる
⑦ 買い物の会計でお札ばかり出す(小銭がたまっていく)。
⑧ 作る料理の品数が減る、味が変わる。

この他にも、いくつかあるようですが、
上記のことは、わたしの親の上に現実に
起こったことなので挙げてみました。

①と②については、誰もが知っていることだし、
おそらく加齢とともに誰もが
「自分自身もそうではないか」
と感じることなので、
必ずしも認知症とは限らない
行動とも言えます。

わたしは、私自身①のような行動が
若いときから多いので、(即ち
人の話をよく聞かないという性格)
「また、同じことを言う!」とか
「また、同じことを訊く!」
という反応を嫌います。

学校に勤めていた頃は、よく後輩に
「子どもが同じことを聞いてくる
ということは、
理解できてないということだから、
子どものせいにしないで、
自分の指導力不足と思おう。」
などとアドバイスしていました。

なので、もし老人に(老人でなくても)
①や②のような行動が見られても、
咎めたりせず、優しく対応してほしいと
思います。

私自身なるべく両親に対して
そのように接してきました。

しかし、むずかしいのは、本当に
それでよかったのかということです。

もしかすると、
もっと早く認知症の治療を始め
られていたかもしれないのです。

①②を見逃して(大目に見て)しまい、
ずるずると、③以下も
「そんなものかな・・。」と
見逃してしまいました。

というか、
父の頃は、今ほど認知症に対して
余り問題視していなかったので、
「治療」という方向に目が向かなかったのです。

父の晩年、父を循環器系の診察で大学病院に
連れて行った時のことです。
(「連れていく」ということ
自体、すでに問題なのですが、)

診察室前のソファで番を待っていた時、
父が「トイレに行ってくる。」と言いました。

ところが、なかなか帰ってこないので、
探しに行くと、ウロウロしている父を
発見しました。

その日の診察の結果は、
異状なしということでしたが、
「わかんなくなっちゃった。」
と言う父には、初めて循環器系ではなく
認知症の診察が必要ではないかと感じました。

さらに、父の運転で父のお気に入りの
遠方にあるうどん屋に行った時、
道路の中央を走ったり、
踏切で止まらなかったりということがありました。

父は、高齢者教習を受けた後、
免許センターに更新に行きました。

センターに行ったときも
心配で一緒について行った母の話では、
道に迷ったということですから、
もう免許証を更新できないだろうな、
とタカをくくっていましたら、
それがすんなりと通ってしまったのです。

厳しくなった今の制度なら
恐らく通らなかったのでしょう。

更新後、幸いと言うか、
大きな事故を起こすこともなく
父は他界しました。

そのようなわけで、
父に対しては甘かったというか、
本人には言い出しにくいまま
結局、何ら認知症の治療を受けさせることなく
死なれてしまいました。

しかし、
もっと長生きすると思われたくらい、
母よりも足腰丈夫に死の前日まで元気に
過ごしていましたし、
認知症も初期の段階で済み、
親戚の伯父や伯母のように徘徊するほどの
困惑や迷惑を掛けなかったことは
見習いたいくらい立派だったと思います。

母の介護履歴

デイサービスから

わたしの母は、
同時代の女性と比べると
背が高めで脚も長く細めでした。

しかし、私たちを産んでからは
お腹を中心に太り気味で、
数年位前まではいわゆる西洋型の
太ったおばさんでした。

そんなわけで、家事のためには
よく動き回るものの
あまり歩いたり運動したりと
いうことは好みませんでした。

80代になると、足腰も弱くなって
家事も最低限のことしかしない
ようになって、家の中はだんだん
ゴミ屋敷に近くなってきました。

わたしは、訪問する度に
掃除をするようになっていました。

そのころ、ちょうど介護制度が
整い始めてきて、デイサービスにも
喜んで通い始めました。

父はそんな母を笑っていましたが、
一般的に女性はデイサービスに
抵抗がないように思えます。

それに対して、
父はいつも馬鹿にしていました。
実際にその必要がなかったのですが。

そんな父が突然先に他界してしまいました。

介護用の改築

父の死後、
母のため介護用の改築をしました。

玄関に上がりやすいように
踏み台を置き、脇につかまるための
手すりを付けました。
そうした手すりは、廊下やトイレなど
各所に設置しました。

また、廊下と部屋の段差をなくすような
工夫もしました。
介護のための補助金がいくらだったか
忘れましたが、補助金以上を掛けて
工事しました。

そのころ、介護度は介護1になるかどうか
という段階でデイサービスには週2回
通っていたと思います。

ところで、母は年相応に定期的に
かかりつけの医院に通って、
様々な薬を飲んでいました。

そのうち、消化器関係が思わしくなくなって
入院するということになりました。

入院という事態は、老人にとって
危機的状況であることを
その頃のわたしは認識できていませんでした。

入院のきっかけとなる病気よりも、
入院生活による筋力の低下が
問題なのです。

母の場合、病気の(治療の?)結果、
内臓の力と言うか、生命力というか
最後には、胃ろうの状態になる
寸前まで来てしまいました。

病院の担当医師が、「治療は
やれるところまでやった。」
と言い、退院を促してきました。

地域包括支援センターに相談

そこで、地域包括支援センター
担当ケアマネージャーに相談しました。

わたしは就業中の身の上、
家で介護できる状態ではなかったので
何軒か近所の老人ホームを下見しました。

その中で最も「姥捨て山」的ではない
新しい施設の個室がいいと思い、
難色を示す母を説得して入所させました。

そのとき、介護度は要介護3だったでしょうか。

介護付有料老人ホーム
から特養へ

一口に老人ホームと言っても
様々な種類があります。

地域包括支援センターの
ケアマネージャー(以下、略称:ケアマネ)
に相談しますと、教えてくれます。

ざっくりと紹介しますと、
公的機関と民間経営とに分けられます。

公的機関には、主として
特別養護老人ホーム(以下略称:特養)と
介護付き老人保健施設(以下略称:老健)
があります。

これらは、国などからの補助がある関係で
民間の施設に比べて費用が割安です。

そのために、希望者が多く
思い立ってすぐに利用するということができません。

空きができるまで、
長い時間待つ必要があります。

なので、わたしの母の場合も
急いでいましたので、
最初から対象外にしました。

しかし、
今になってみれば後悔しています。
長いこと待たなければならな
いからこそ、思い立ったらすぐに
申し込んでおくべき
でした。

キャンセル料を取られるわけではありませんから。

申し込まなかった理由はもう1つあります。
それは、わたしの中にやはり
特養=姥捨て山のイメージがあったからです。

なので、民間の新しい施設を
下見したのでした。

民間の施設には、
住宅型有料老人ホームくらいしか
知りませんでしたが、
介護付有料老人ホーム
続々と建築され始めていました。

その中で、施設が明るく
対応したケアマネの人間的魅力に
も惹かれて、この施設を選びました。
約5年間お世話になりました。
そこを選んだもう1つの理由は、
毎月の費用が父の遺族年金でほぼ
賄えることと、入所に際しての一時金を
取らないことが大きかったと思います。

そして、
その施設では定期的にリハビリの
サービスが施されていました。

母に早く歩けるようになってもらい
家に連れ戻したいと考えていたからです。

今から思えば、
これは正に老健に申し込むべきであった
と悔やんでいます。

あとで、老健に相談に行った所
あまり期待されても困るような
雰囲気でしたが、見学した所
公的施設の上、スタッフと施設が
充実していることが分かりました。

母は、私たちの期待に応えて
リハビリ等に頑張っていました。

ところが、あるとき
大きな病気をして大学病院に運ばれて
長期入院となりました。

その後、施設に戻ったものの
痩せて筋力が格段と落ち
介護度も要介護4にまでなってしまいました。


それでも、わたしが「たとえ歩けなくても
仕事をやめたら家に戻す」などと
励ますものですから、無理してしまい
ベッドや便座から落ちるという
事故が続いてしまいました。

施設では、それを機に怖がって
今では、ベッドの上でおむつ替え
という状態にまでなってしまいました。

そうなって、わたしたちも、本人も
家に帰るということを諦めてしまいました。

それでも、家で看ようかと
さまざまな方法を探りました。

デイサービスとショートステイを
組み合わせようかとか、
訪問介護お願いしようかとか考えました。

しかし、残念ながら
最終的には本人が家への外泊を拒否
したことで、わたしも諦めました。

特養への入居

1年ほど前,特養が我が家のす
ぐ近くに建設の予定という情報
が入りました。

すぐに検索して問い合わせて,
仮予約をしました。

幸いなことに,家の近所も近所
同じ町内会の中なので,自治会
長にも話が来ていて,「ぼくか
らも頼んでおく。」と言ってく
れました。

建築が始まるころ,母は介護5
の認定となりました。

申し込みの時期になり,申し込
みの面接時に言われたことは,
「介護5ということは,他の方
と20ポイント差があるという
ことなので,ほぼ入居できると
思います。」ということでした。

そして,入居しました。

 

 

 

驚いたことは,
サービス面ですべて介護付き有
料老人ホームより優れているこ
と,そしてそれなのに利用料が
大幅に安く済んでいることです。

介護度が進んだということは寂
しいことではありますが,入居
できたことは本当に幸運だった
と思っています。

p.s.
こちらのサイトが分かりやすくまとめられてます。
老人ホーム

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